#手打ちうどん #うどん は、小麦粉を練って長く切った、ある程度の幅と太さを持つ麺、またはその料理である。饂飩
細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定(後述)がある以外は厳密な規定はない。細い麺であっても「稲庭うどん」の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については「きしめん、ひもかわ」も含まれる。
5 料理
5.1 料理方法や食べ方による種類
5.1.1 かけうどん・素うどん
5.1.2 ざるうどん
5.1.3 ぶっかけうどん
5.1.4 釜揚げうどん
5.1.5 つけ汁うどん
5.1.6 煮込みうどん
5.1.7 焼きうどん
5.2 上にのせる具(加薬、種物、薬味)による種類
5.2.1 きつねうどん
5.2.2 きざみうどん
5.2.3 月見うどん
5.2.4 山かけうどん
5.2.5 とじうどん
5.2.6 天ぷらうどん
5.2.7 たぬきうどん
5.2.8 力うどん(ちからうどん)
5.2.9 かやくうどん・五目うどん・おかめうどん
5.2.10 卓袱(しっぽく)うどん
5.2.11 あんかけうどん
5.2.12 おだまきうどん
5.2.13 カレーうどん
5.2.14 鴨南蛮・鶏南蛮・かしわうどん
5.2.15 肉うどん
5.3 その他の食べ方
6 日本国内における地方のうどん
6.1 豪雪うどん
6.2 チホクうどん
6.3 稲庭(いなにわ)うどん
6.4 甘ったれうどん
6.5 ひっぱりうどん
6.6 おっきりこみ
6.7 上州うどん
6.7.1 桐生うどん
6.7.2 館林のうどん
6.7.3 水沢うどん
6.8 耳うどん
6.9 加須うどん
6.10 冷汁うどん
6.11 武蔵野うどん
6.12 一本うどん
6.13 帯うどん
6.14 ほうとう
6.15 煮ぼうとう
6.16 きしめん
6.17 ひもかわ
6.18 吉田のうどん
6.19 おしぼりうどん
6.20 おにかけ(オセーメン・オトウジ)
6.21 氷見うどん
6.22 小松うどん
6.23 ころ(香露)うどん
6.24 伊勢うどん
6.25 京うどん
6.26 こぶうどん
6.27 かす汁うどん
6.28 かすうどん
6.29 ホルモンうどん
6.30 備中うどん
6.31 倉敷のぶっかけうどん
6.32 しのうどん
6.33 大豆うどん
6.34 鳴門うどん
6.35 たらいうどん
6.36 讃岐うどん
6.37 鍋ホルうどん
6.38 博多うどん(福岡うどん)
6.38.1 丸天うどん
6.38.2 ごぼう天うどん(ごぼ天うどん)
6.38.3 かしわうどん
6.39 五島うどん
6.40 あごだしうどん
6.41 ごまだしうどん
6.42 やせうま
6.43 団子汁
6.44 しるかえ
6.45 魚うどん(ぎょうどん)
手軽な庶民食、米食の代用食として、また、祝い事に際して振る舞われる「ハレ」の食物として、古くから日本全国で食べられてきた。地域によって調理法や具材が異なる。
麺を大きな鍋で茹で上げる場合には、鍋の周囲に引っかけた状態で茹でられるよう、金属製あるいは竹製で深いザル状の「鉄砲ざる」(略して「テボ」「てぼざる」とも言われる)が用いられることも多い。
供する器には、丼(かけうどん)や、皿(うどん鉢など)、ざる(ざるうどんなど)、鍋(鍋焼きうどん)のほか、桶(うどん桶)、たらい(たらいうどん)なども用いられる。
専門店以外にも、蕎麦も並行して提供する店舗があるほか、外食チェーン店などのメニューともなっている。また、麺のみの販売もスーパーマーケットなどで乾麺、茹で麺、生麺の状態で行われており、カップ麺としても多くのメーカーが多様な種類を販売している。
自動販売機による販売も行われており、カップ麺タイプ(パッケージがそのまま出てくるものや、湯を注ぎ完成したカップ麺が出てくるもの
歴史
発祥には諸説あり定かではないが、時代順に並べると以下のようになる。
奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説。
青木正児の『饂飩の歴史』によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩(コントン)」と書き、またこれを「餫飩(ウントン、コントン)」とも書き、これが同じ読み方の「温飩(ウントン)」という表記になり、これが「饂飩(ウドン)」となったとする説。
平安時代に遣唐使として唐に渡った空海が饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという伝説。
平安時代の989年、一条天皇が春日大社へ詣でた際に「はくたく」を食べたという『小右記』の記述から、発祥は奈良とする説
仁治2年(1241年)に宋から帰国した円爾(聖一国師)が製粉の技術を持ち帰り、饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物食文化を広めたとする説。承天寺(福岡市、円爾建立)境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っている[7]。また製粉機の詳細を記した古文書水磨の図が残されている。
中国から渡来した切り麦が日本で独自に進化したものであるという説。
奥村彪生によれば、麵を加熱して付け汁で食するものは中国にはなく、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉の餡を小麦の皮で包んだもので、うどんとは別物であり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるとする説[8]。
南北朝時代末期の『庭訓往来』や『節用集』などに「饂飩」「うとん」の語が現れる。江戸時代は「うどん」と「うんどん」の語が並存し、浮世絵に描かれた看板などに「うんとん」と書いてあることがよくあり、明治初期の辞書『言海』には「うどんはうんどんの略」と記されている。
室町時代に記された『尺素往来』に「索麺は熱蒸し、截麦は冷濯い」という記述があり、截麦(切麦)が前身と考える説もあるが、その太さがより細く、冷やして食されていたことから、冷麦の原型とされている。切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれた[9]。
いずれにせよ、江戸時代前期には現代の形のものが、全国的に普及して広く食べられるようになっていた。
備考
現代の中華圏では、日本のものを「烏冬」あるいは「烏龍麵」と表記するが、いずれも日本語の発音に基づく当て字であり、起源・由来とは関係がない。
江戸時代中期までは、薬味はコショウだった。江戸時代後期にトウガラシ栽培が軌道に乗るに連れ、その地位を奪い今日に至っている[10]。
文化
日本におけるうどんの文化として、歴史的には蕎麦(蕎麦切り)より、うどんの方が古い。また、小麦の原産地は中央アジアから西アジアとされており、米作に向かない地域で耕作され発展している。「門前蕎麦」と同じく、参拝者などに対する「門前饂飩」として古い歴史を持った社寺にまつわる文化的なうどんが各地に存在している(加須うどん、吉田のうどん、伊勢うどんなど)。
日本東西のうどん・そば文化
主に関西で好まれ、蕎麦が好まれる関東ではあまり好まれないとされるが、蕎麦=東日本、うどん=西日本とするのは正しくない。
江戸時代前期の江戸の市中においては、まだ麺類としての蕎麦(蕎麦切り)が普及しておらず、蕎麦がきなどの形で食べられていたことから、江戸でも麺類としては人気があったようである。蕎麦きりの元祖は信州そばであり(蕎麦切りの最古の記録は、天正2年(1574年)に木曽の定勝寺で落成祝いに蕎麦切りを振る舞ったというもの)、これが信州から甲州街道や中山道を通して江戸に伝えられたものとされる。蕎麦切りが普及すると、蕎麦と蕎麦屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、脚気防止のために冷害にも強い蕎麦が好まれたことなどの理由もある。
蕎麦が江戸で広がったことは事実であるが、現在の関東地方でも、武蔵野や群馬県を中心として、それぞれの名物である「武蔵野うどん」や「水沢うどん」をはじめとする専門店も多い[11]。実際、2004年度(平成16年度)のうどん生産量でも、1位は日本全国に向けて宣伝をしている讃岐うどんの香川県だが、2位は埼玉県であり、群馬県もベスト5に入っている[12]。これらの地域では、二毛作による小麦栽培が盛んで、日常的な食事であり、かけうどんや付け麺(もりうどん)にして食べられることが多い。
天正12年(1584年)に、大坂で「砂場」という蕎麦屋が開業した記録があるなど、近畿地方でも早い時期から蕎麦が食べられており、蕎麦切りも普及していった。近畿地方では「そば屋」よりも「うどん屋」が多いが、京都では近隣の丹波地方で蕎麦作りが盛んだったため、蕎麦文化も根付いており、専門の「そば屋」も多いうえににしんそばは京都の名物ともなっている。「出石そば」をはじめとする近畿北部の蕎麦文化は、江戸時代に信州から導入されたものだという。
讃岐国を除く西日本の大部分の地域では、大阪や京都、福岡、鳴門など腰が弱めでつゆ[13]を吸いやすい、柔らかい麺が好まれている(柔肌の大阪うどんより)。また、関西では「かやくご飯」(二番出汁を有効活用した炊き込みご飯)と一緒に供することも多く、吸い物の感覚として好まれている。
日本三大うどん
「日本三大うどん」という呼称があるが、日本うどん学会によれば、これは特定の機関が認定したものではなく、それぞれの地域が独自に称しているに過ぎないとされる。参考までに、以下の6種類が候補として挙げられている。
香川県の「讃岐うどん」、秋田県の「稲庭うどん」、長崎県の「五島うどん」、群馬県の「水沢うどん」、富山県の「氷見うどん」、愛知県の「きしめん」。
麺